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REPORT イベント実施報告

第4回Webinar講演会(伊藤亜紗 氏)

2021年1月12日@Zoom

レポート2021年1月12日 15:30-17:00 zoom開催
「「ふれる」コミュニケーション」
講演者:伊藤亜紗氏
(東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院 准教授)
ディスカッション:浅輪貴史、野原佳代子、坂村圭
モデレーター:坂村圭

●講演の概略
「「ふれる」コミュニケーション」 伊藤亜紗 様

<「さわる」と「ふれる」の違い>
今日のテーマは接触。日本語の中には、接触に関する「さわる」「ふれる」という動詞がある。この二つは、微妙にニュアンスが異なる。例えば、「傷口にさわる」といわれると痛そうで手を引っ込めたくなるが、「傷口にふれる」といわれると手当てをしてくれる気がする。ここから分かるのは、「さわる」が「一方的/もの的」であり、「ふれる」が「相互的/人間的」であるということ。特に「ふれる」の場合には、接触される側の感情や反応を感じ取りながら接触をしてくれるという意味合いが含まれている。
 細かく見ていくと、病院に行ってお医者さんが患部を見る場合には「さわる」を用いることが好ましい。それは、お医者さんには感情移入を求めていないことが多いためだ。しかしこれももっと細かく見ていくと、東洋医学と西洋医学では異なってくる。
 このような違いに興味を持ったきっかけは、視覚障害者の伴走の経験だった。視覚障碍者の伴走には「ロープ」が用いられ、それを二人がもって意思を伝えて走る。たかが「ロープ」と思うかもしれないが、ここからは様々な情報が伝わっていく。例えば、目の前に急な坂があった場合には、伴奏者が坂を見た緊張がロープを通して障害者の方に伝わっていく。それは、まるで体の境界が書き換わるというようなイメージである。
 さらに衝撃を受けたのが、アイマスクをして自分が視覚障碍者体験をしたときであった。最初は目が見えなくなって走ることは非常に怖いことであったが、数分で伴奏者を信じようというあきらめが出て、そのあとは人を信頼する快感に包まれた。相手に自分の生命のすべてをゆだねるという奥行きのある「信頼」が、快感をもたらしたのだと思う。
 このような経験から、「触覚」というものに非常に興味を持っていった。翻って考えてみると、私たちの人間関係は「視覚」ベースで行われている。それはそれでいいが、それだけが人間関係ではない。実際、視覚障害者の方の、触覚を通して分かる人間関係は、視覚を通じたものとは全く異なるものであった。

<コミュニケーションの伝達と生成>
 触覚のコミュニケーションを考える手がかりにしているのが、コミュニケーションの二つのモードである。一つが、「伝達モード」のコミュニケーションで、メッセージは発信者の中にあり、一方的で、役割分担が明瞭なものである。これは「さわる」に近い。もう一つが、「生成モード」のコミュニケーションで、意味がメッセージの中で生まれていく、双方向的で役割分担があいまいなもので、これは「ふれる」に近い。特に、障害者のひとは伝達モードのコミュニケーションを受け取ることが支配的になりがちであるが、生成モードのコミュニケーションをうまくいれていくことが重要となる。
 生成モードを考えるうえで、重要となることが「信頼」というものである。信頼がないと、人は支配的な伝達モードのコミュニケーションをとってしまう。この信頼は安心とは全く違う。例えば、GPSを持たされている学生の親は、子供の位置情報が全てわかることに「安心」するかもしれないが、それは子供を「信頼」していることにはならない。このように、不確実性が存在するなかで、不確実性をなくそうとするのが「安心=管理」で、不確実性が存在する中で大丈夫な方に賭けるのが「信頼=任せる」ということである。
 実際、障害の当事者と関わっていると、彼らが信頼されていないことに不満を感じていることが分かる。例えば、お弁当を持ってきてお箸を割ってまでくれることに、善意だとはわかりつつも障害者の人は自分が信頼されていないと感じてしまう。

<利他と信頼>
 「利他」というものを考えるうえでも、「信頼」が重要となる。分かりやすい善意というものは、「利他」になっていない場合が多い。何か積極的にやってしまうことは、自分の善意の押し付けになってしまう。本当の利他は何かということを突き詰めていくと、「余白」を自分の中に設けて、相手が言いたいことを引き出すことや、相手によって自分が変わっていくことだと思われる。建築の中では、このような「余白」の設計は、「雑談」「焚き火」「喫煙所」的な空間をつくることではないだろうか。

<障害者の方との生成モードの具体的な事例>
 視覚障害者の方の見方を引き出して、それを借りながら、新しい世界の見え方を勉強している。視覚障害の方とどうしたら一緒にスポーツ観戦を楽しめるかという実験を行っている。通常は、実況中継のようなものが多いが、「ジャンプしました」といわれても、そのジャンプの質感までは伝わらない。そこで「言葉」を使わないで、「触覚」によってスポーツを伝える方法を試行錯誤している。
大きな発見の一つが、そもそもスポーツ選手が「視覚」をそんなに使っていないということであった。スポーツ選手は、「触覚」「聴覚」をおおく使っているのに、私たちのスポーツ観戦は「視覚」によって彼らを感じ取ろうとしていた。そこで、スポーツ選手の感覚を、「触覚」によって翻訳して伝えられないかという実験を行うこととした。例えば、ラグビーのスクラムの翻訳を「触覚」的に行った。この際には、キッチンペーパー二個を頭に着けて、相手がどっちに行こうとしているかの感じを再現した。この他にも、フェンシングを知恵の輪で再現するなどの実験を行った。
 
<接触障害者たちのコミュニケーションを考えるヒント>
 コロナ禍の私たちは接触障害者のようなものである。そんな私たちのこれからのコミュニケーションとはどのようなものかを個人的な経験から考えてみた。
 一つ目のヒントは、東工大D-labの「Stay Home, Stay Geek」というコロナ禍における研究者のインタビューからわかったことである。インタビューをしてみると研究者はそれぞれ独自の世界観を持っている。それは「環世界」(=一つの世界を様々な生物が様々に捉えている)という考え方に似ている。この人の世界の見方が面白いと思ったのが、人工衛星の研究をしている方だった。いつも宇宙空間のリモート実験をしている方にとっては、コロナ禍の状況が普段の研究環境と同じようにとらえられていた。このような研究者は、遠いところの事象をいかに想像して捉えるかということを常日頃から行っている。私たちも、遠隔を最初から含みこむような創造力を作っていかなければならないと感じる。
 二つ目のヒントが、自身の芸術の授業の時に感じたことである。遠隔で学生に作品を作らせると、教室で作らせるよりもすごくいいものを作ってくる。それは当たり前のことで、自宅の周りには作品を作る材料や環境が整っているためである。これまでの教室での授業では頭の中での思考でとどまっていたが、環境が変わり材料がある場合には、手で考えることができるようになる。それは人間の本当の姿に近いのかもしれない。また、インスタなどで制作の経過を共有して、まわりの仲間の状態が感じられるようになったことは、デッサンのアトリエでの他者の存在の感知と似ていて、授業に対する意欲を増進させていると感じる。
 三つ目のヒントが、講義の感想を目にした時である。そこには「授業の雰囲気が夜の散歩にぴったりだった」と書いてあった。毎回の授業は録画されているので、学生が散歩中に授業を復習して書いたものだと推察できる。散歩という集中していない散漫な状態で講義を受けるというのはどうかという意見もあるだろうが、研究者やアーティストはふとした瞬間にアイデアを思いつくこともある。生活と大学の授業の線引きが分からなくなって散歩中に講義を聞くということが、意外と学習効果が高いということもあるかもしれない。

●ディスカッションの概略
(野原)リアルとバーチャルの狭間で悩みつつ生きているが、その分け方も再考しなければならないかもしれない。リアルは相手を直接さわれる状態として、バーチャルは画面を通して相手と対峙するという意味で使っているが、そのどちらの状況においても、私たちは五感を使ってコミュニケーションをとっている。これまで視覚に頼ったコミュニケーションをしてきたが、触覚を意識的に使うことでコミュニケーションは変わるだろうし、生成モードを意識することで押し付けとならないコミュニケーションになると思う。
(伊藤)リアルとバーチャルという分け方は本当に変な分け方だと思う。まず、バーチャルとはどういう意味かというと、バーチュ(徳、本質)から来ている。バーチャルを、現実に近い解像度を作っていくではなくて、本質を捉えてそれを変換して伝えると捉えると、これからのバーチャルリアリティも変わっていくと思う。また、似た概念として遠隔という言葉もあるが、一見リアルと思われているものにも遠隔はある。例えば、ダンスを教える時は自分と違う身体を動かすことを行っている。これは非常に遠隔的な動作で、ダンサーには遠隔で使用される際の様々な知見が備わっている。

(坂村)リモートとバーチャルが違うというお話は非常に面白かった。リモートは場所から解放されていること、バーチャルは本質を保ちつつ別の形で表すということなのかと思う。お伺いしたいのは、「触覚」というものの性質。これまでのコミュニケーションのなかで「触覚」ではなくて「言語」が選択されてきたことには様々な理由があったと思う。「触覚」の良い面と悪い面を教えてほしい。
(伊藤)知覚が一番精神的で、触覚が一番動物的だとされ、触覚はずっと西洋の人たちに低級の感覚だといわれてきた。それは、触覚が対象との距離が無く危険を伴うためだとされている。この危険には二つの意味があって、一つは相手から暴力を振るわれるかもしれないということ、もう一つは自分が相手を刺激して暴力的にしてしまうかもしれないということである。このように触覚に不安定さがあることが、使いにくい部分でもあり、可能性でもあるように思う。触覚は、自分のコントロールできない部分までも引き出してしまう時に、どのように相手と関わるべきか(倫理)ということを考えさせてくれる。
(坂村)リモートでは触覚を通じたコミュニケーションは難しいのか。
(伊藤)触覚のバーチャル化(本質を捉えて別の形への変換)を行い、言語で触れるみたいにすることができれば、リモートでも相手に触れるということは可能となるかもしれない。また、それぞれの現場に触れられるものはたくさんあるので、それらを用いることで新しい触覚を通じたコミュニケーションは行えるかもしれない。

(浅輪)オンラインの会議だとディスカッションがなかなか盛り上がらなくて、生成モードのコミュニケーションが難しいと感じている人は多いと思う。対面がなぜ重要かというと、同じ場の空気を共有したり、相手のジェスチャーを感じたりして双方向的なコミュニケーションが行いやすい状況が形成されているためだと思う。これからのリモートで、このようなリアルの性質を取り込むためにはどうしたらいいだろうか。
(伊藤)「おりひめ」という分身ロボットがある。それは遠隔で人が操作するロボットなのだが、それを使いこなしている人は、分身ロボットとzoomはまったく異なるという。何が違うかというと、分身ロボットは沈黙していても大丈夫なのだそうだ。いま私たちが行っているzoomは、沈黙を嫌う余白をなくすメディアである。積極的に沈黙を取り入れないと、伝達モードになってしまうので、それを取り入れる努力をすると良いかもしれない。

(浅輪)リモートやバーチャルを含めてこういう空間があればいいというものがあったら教えてほしい。例えば、お話の中にあった「余白」的な空間が都市にもっと必要なように感じたが、そのような例があれば教えてほしい。
(伊藤)確かに余白的な空間を追い求めているが、難しいのは人が設計した余白は本当の余白ではないということ。自分で余白だと思う空間を見つけることが大事だと思う。神戸にアイセンターという、IPS細胞で全盲を弱視にするような施設があり、自分たちの隙間を探すことのできる公園が併設されている。地形的にアップダウンが設けられていたり、自分たちでカスタマイズできる空間となっていて、患者さん自らが落語会や料理会を企画している。ぱっと見では余白ではないが、機能的に余白的な空間となっていて、社会に出ていく前に勇気を獲得できるような場所となっていると思う。
(野原)自分で見つけるということがいかに大切かということを強く感じる。学生とのオンライン面談で、1時間以上進捗相談を聞いた。学生が沈黙をはさみながらぽつりぽつりと話していく中で、紙をガサガサする音や電車が通る音を聞いた。その時に、言語できっちりと抑えていったら出てこないものや、ぼんやりとしたものを共有することが、リアルでもバーチャルでも重要となると感じた。それぞれが作り出すプラットフォームの重要性が増加していくと思う。

●会場からの質問
-信頼社会を作っていくための生成モードによる相互理解において特に重要なことがあれば教えてください。
(伊藤)「あきらめ」が重要かもしれない。安心には100%がなくて、追い求めすぎると非合理的な組織になってしまう。管理にかかるコストはどこまででも増やすことができるが、そうすればそうするほど人間的で本質的なものではなくなってしまう。どこかであきらめたほうが、人間的な生活を送れると思う。

-イノベーションのためには、対面や接触(生成モード)が必要不可欠という神話がありますが、いかがでしょうか。
(伊藤)定期開催のzoom会が何個かあるが、会っていない時間も相手とつながっているような気持になっている。ずっと頭の片隅に相手のことを考えていることが、この状況だからこそのイノベーションに繋がっている気がする。
(浅輪)宇宙工学の研究者のお話しにもあったように、遠くにあるものを近くに感じるようなトレーニングをすることで、新しいイノベーションもおこってくるかもしれない。

ご講演資料はこちらからダウンロードできます →人生100年時代の都市・インフラ学

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